「チーム男子」トークイベント

 「チーム男子」トークイベントを見るために立川まで行ってきましたよ。登壇者は金田淳子能町みね子、福田理香、少し遅れてカトリーヌあやこ。ちょっと長丁場でしたが、盛り上がった会でしたね。グッときたポイントを挙げると…

・チームリーダーのチャームが重要。ちっちゃいリーダーはみんなが「守ってあげなきゃ!」と思うので、チャームが増す。思えばチームリーダーはちっちゃい人が多い。
・チーム男子はくだらないことをキャッキャと楽しむ。童貞性が高い。そこに女子が入るとするなら、「検索ちゃん」における小池栄子のような立場しかありえない。
・組織の一員として使命を果たさなくてはならないという状況と、個人としての自分との間にギャップが生じるが、そこがいい。
・チーム女子とチーム男子の違いは、チーム女子にはヒエラルキーがあるところ。大奥や宝塚のように順位がはっきりしており、ヒエラルキー上位のものとそれを超えようとするものとの間の一対一関係となる。ひろみとお蝶夫人のように。一方チーム男子の場合は、関係性はヒエラルキー性が弱く、個人の関係は比較的フラット。一対一関係になりすぎないようにして、関係がギスギスすることを回避しようとする。
・永続する関係と異なり、チーム男子には「解散」があることが重要。

といったところでしょうか(メモをもとにしているので、正確でないかもしれません)。取り上げられた作品は、三国志、「SP」「オトコマエ」「バッテリー」「クローズ/ZERO」「LOTR」「ハゲタカ」「ヘタリア」、サッカー日本代表タモリのデビューのいきさつ、相撲部屋、鉄道路線擬人化、といったもので、実に盛りだくさん。随分堪能したのでした。

 聞いてみて感じたのですが、一言で「チーム男子」といっても、アニメ/特撮/オタク的文化を中心に見るか、芸能/ドラマ/スポーツを中心に見るかで、随分萌えどころ、感じ方が違うんですね。登壇者でいうと、金田さん、福田さんが前者で、能町さん、カトリーヌさんが後者になりますでしょうか。「文化圏の違い」を実感しましたね。実際漫画をたくさん読んだり、アニメをたくさん見たり、ゲームをたくさんしていると、ドラマまでは手が回りませんからね。「チーム男子」という概念は、違う文化圏を架橋するうまい概念だったと思います。ただ三国志萌えをアツく語る金田さんと、相撲部屋萌えを語る能町さんとの間に温度差があったのも事実。フィクション性のレベルが違うものを同じ土俵で語っているために、結局は同床異夢なのかもしれないな、なんて思いましたね。

 とはいえ、萌えをガンガン語るトークショーが実に面白かったのも事実。こういうイベントがこれからも開かれるといいな、と思ったのでした。

記号学会・その後

 案の定室井さんのブログからトラックバックが拒否され、「別なおもちゃで遊んでなさい」とか書かれちゃいましたね。

 室井さんが狙っていたことは、BLという作品ジャンルの内容を語るのではなく、それが表象するものが現実においてどんな意味と可能性を持っているのかを語ることだった、ということはまあ分かりました。だからBLの内容自体についてはあまり吟味する必要がないということも分かりました。非常におおざっぱな言い方をすれば、室井さんはBLを「外部の視点から」「分析的に」見ようとしていたのでしょう。今回の問題は、その見方がBLを「内から」見る見方、客観化できないほどBLが個人の抑圧や経験と結びついている人の見方と対立したから生じたんでしょうね。まあ室井さんが言うには「その場に居合わせなかったものは黙っとれ」ということなんで、この衝突についてはどうこう判断することはやめておきたいと思います。

 ただ、ブログから読み取れる室井さんの姿勢には引き続き疑念を呈していきたいと思います。BLというものは、読む者の個人的な抑圧やトラウマと多かれ少なかれ結びついているものです。最近は抑圧やトラウマと関係なく、単に娯楽として、室井さん言うところの「データベース的」に読む人が出てきていることは否定しません。ただ現在の腐女子腐男子をめぐるポリティクスにおいて、「腐」であることはいまだに解放されたものではなく、おおっぴらにするにははばかられるものです。そして自分が「腐」であることを隠すことの裏には、その人の個人的な抑圧やトラウマ、周囲の状況への不適応や齟齬があります。「腐」であることがばれてしまうと、周囲との齟齬が発生すると大いに予想されるために、彼女ら/彼らはばれないように必死で「擬態」するのです。BLという作品ジャンルはそうした人たちが楽しむものであり、よりどころにするものです。ですからBLの背後には、多くの非常にセンシティブな読者がいるわけです。
 そうした状況の中で、内容に踏み込むことなく、表出されている記号でBLを分析しようとすることは、BL読者に対して、極めて配慮の欠けた行為だといえます。読者にとって、BLに描かれた様々なストーリーや展開は、それぞれ自分の抑圧やトラウマやセクシュアリティと密接に絡み合ったものです。そうした価値観を共有しない人が、外部からBLを分析しようとすることは、読者にとって重大な「侵犯」または「横取り」であるととらえられるでしょう。私が前回のエントリで「搾取」と書いたのは、そうした心情を指しています。確かに客観化・抽象化しないと学問的な分析はできません。しかし対象によっては、ドライな客観化や抽象化をするにはふさわしくないものがあります。BLはまさにそうした領域です。
 私はフィールドワーカーなので、室井さんとは学問的な方法や立場が違います。別の専門の人に何を書いても意味がないのかもしれません。「やり方が違うから」で終わりになっちゃいますから。ただ私の仕事は、BL読者、ひいてはおたくが抱えるそれぞれの抑圧やトラウマをひとつひとつ読み解いていき、どんな変化が起こったかという全体像を明らかにしていくことです。そうなると室井さんのような無遠慮なやり方は本当に困るんです。
 もちろん一人のBLを愛好する「腐男子」としても疑念を示したいと思いますが、なによりアカデミックな領域の端くれにいるものとして、室井さんのBLの扱いに強い疑念を示しておきたいと思います。

日本記号学会大会「遍在するフィクショナリティ」

 この5月10、11日と、京大で日本記号学会の大会「遍在するフィクショナリティ」が開かれました。BLを扱ったシンポジウム「すべての女子は《腐》をめざす─BLとフィクショナリティーの現在」が開かれるというので、日程が合えば行ってみたいと思っていたのですが、あいにく行くことができませんでした。ところがそこではとんでもないことが起こっていたようなんですね。
 シンポジウムの登壇者は横浜国立大の清田友則さんと、『やおい小説論』の永久保陽子さん。司会は横浜国立大の室井尚さんです。
 シンポジウムの途中から進行が怪しくなり、質疑応答で司会とパネリストの姿勢に対して聴衆から不満が噴出。抗議の声を上げる質問者や男子学生に対し、司会の室井さんが「BLなんてクソだ」「滅んでしまえばいい」などと発言し、「炎上」したようなんですね。

font-daさんのブログ「キリンが逆立ちしたピアス」でのレポート
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080510/1210438151

ayuasanoさんのブログ「vivement mercredi!」
http://d.hatena.ne.jp/ayuasano/20080513/1210687953

翌日の別のシンポジウムの登壇者でもある千野帽子さんのブログ「0007 文芸檸檬
http://d.hatena.ne.jp/chinobox/20080513/1210647064
http://d.hatena.ne.jp/chinobox/20080513/1210658254
http://d.hatena.ne.jp/chinobox/20080514/1210688227

司会の室井尚さんのブログ「短信」
http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2008/05/post_df4f.html

三者的視点から書かれたdemianさんの「Demilog」
http://d.hatena.ne.jp/demian/20080513/p3

ozimさんの「ひびのこと。」
http://d.hatena.ne.jp/ozim/20080510

 この他、直接その場に居合わせた方(司会の運営に批判的な方)からお話をうかがっています。

 私はその場に居合わせておらず、どういう不満の声が上がったのか、どういう文脈で室井さんが発言したのかは分かりません。ですからシンポジウムの場で起こったことについては判断を保留したいと思います。ただ司会の室井さんと、質問に立った方々との間には認識の大きなずれがあること、それから室井さんのブログにはいくつもの重大な疑問点があることは分かります。

 まず室井さんが意図していたシンポジウムの「ストーリー」はこうです。

ぼくの思惑は、このようなストーリーこそが「フィクショナリティ」であり、そうしたフィクショナリティが一般化され、「有力な商品」として消費の欲望の対象になってしまうという現代的な状況を記号論的に暴き出せないかということだった。確かに以前の「やおい」の女の子たちは複雑な性意識を投影しており、そこには何かしら日の当たるところには出せないうしろめたさのようなものがあったに違いない。だが、現在のあまりにメジャーになった「BL」の愛好家たちはもはやそのような背徳的な暗さとは無縁に、一般に認知された商品としてあけすけにそれを消費しているようにしか思えない。オタクやコスプレに関しても同じようなことが言える。この変化は一体なんなのだろうか?

一方で、清田君の作り出そうとしたストーリーは、自らのセクシュアリティジェンダーをこのような屈折した回路に注ぎ込んで行く「腐女子」たちの中に、セクシュアリティ一般の向かう方向を見出していけないかというようなものだった。この流れで言えば、すべての「女子」ばかりではなく、すべての「人間」は腐女子を目指しているということになる。そして、そこにはファロス中心主義やゲイ、レズビアン、クイアなどに関するこれまでの議論を超えていく、人間の自らのセクシュアリティとの関わり方を解く鍵があるかもしれないという期待もこめられている。

 「現在のあまりにメジャーになった「BL」の愛好家たち」という書き方からして、ろくに調査せず、先入観だけで語っていることがはっきりと分かります。どうやら室井さんの前提として、かつての屈折したBLの受け手はセクシュアリティの問題に踏み込んでいたが、現在の受け手は「データベース的」にBLを消費するだけで、フィクショナリティを持つ文化産物が持っている、現在の社会の問題を解き明かす部分に踏み込んでいないという認識があるようなんですね。ちょっとブログ検索をかければ、そんな単純な区別ができないことくらい、即座に分かると思うのですが。
 また「清田君」(登壇者の清田友則さん)の描こうとするストーリーも、随分乱暴なものです(室井さんの文章なので、清田さんの意図通りではないかもしれませんが)。確かに「自分たちのセクシュアリティの解放を自分たちでかちとっていく」BLは、現在のセクシュアリティのあり方を揺るがしていく、非常にクィアな行為だといえますし、それが「これまでの議論を超えていく」部分を持っているのは間違いないでしょう。ですが「すべての「人間」は腐女子を目指していいる」という書き方には、「自分たちで自分たちのセクシュアリティの解放を勝ち取らなくてはならない」というイデオロギーが現れています。「勝ち取る」タイプでないセクシュアリティは、セクシュアリティのあり方として劣っているという認識がうかがえるのですね。受動的なセクシュアリティもあれば、搾取的セクシュアリティもあります。そうした様々なセクシュアリティのあり方を前提としない議論は、極めて限定的な実りしか生まないと思います。

 質疑応答での混乱について、室井さんはこう書きます。

このまま終わらせたのでは、今回の学会の企画意図が完全に潰されると思ったため、こちらからキレて、質問を封じるという実力行使に出ることにした。

ここは記号学会である。みんなが同じ価値観を共有したり、スーパーマーケットの商品コーナーにそれが好きな人が集まって情報交換したりするようなことではなくて、異なる価値観、異なる専門領域を持つ人たちが境界を越えて行こうとする場なのだ。ぼくたちがこのセッションで試みたのもそれであり、そうではないオタク・トークはどっかよそでやってくれというようなことを言ったのだが、明らかに全くそれが通じない人たちがいたし、その一部は次の日のパネリストであった。

 その場の状況は分からないのですが、どうひいき目に見ても、前段と後段は明らかに矛盾していますね。「境界を越えていこう」とする姿勢が、どうして「こちらからキレて、質問を封じる」ことになるのでしょう。論理的にも疑問ですし、学問に携わる者としての態度としても疑問です。
 そしてこのあとの部分では、現在のBL・おたく文化の受容のあり方を、「データベース的消費」として「劣ったもの」としています。人間の心の機微をとらえることができない消費のあり方としています。これまたそんな単純な話ではないはずなのですが。むしろそうした単純な割り切りをしてしまえる考え方に、逆に感心してしまいます。ちょっとでも実際に触れてみれば、そこにある豊穣さはすぐに分かると思うのですが。表現を通じて人間が描き出そうとする心の問題は、流通や表現の方法は変わりますが、本質的には変わらないと思うのですが…。

 問題なのは、こうした「BLについてろくに調べていない/知らない」人、BLをはじめとしたおたく文化を「データベース的消費」として切り捨てる人によって、BLが取り上げられ、語られようとしたことですね。その場の雰囲気や文脈が分からないので、実際どうだったかは分かりませんが、室井さんの書かれたことを見ると、どのように扱われたかおおよそ想像はつきます。地位のある大学の先生がBLをネタにしようとしたのでしょうね。それって明らかに搾取なんですけど。そして搾取する側がそれに無自覚である分、たちが悪いんですけど。
 「実際にはどうだったのか」を確かめた上で、はっきりと声を上げていきたいと思います。

ワールドコン四日目

 ワールドコン四日目です。さすがに体力が続かなくなってきました。朝起きたらちょっとのどが痛く、だるいのですね。まあ毎日ガッツリ8時間話を聞いているのですから。

 最初のセッションは「日本SFファンダム史」。これは今の私の関心に直撃したセッションです。柴野拓美がどのようにして「宇宙塵」を立ち上げたか、梶尾真治難波弘之が地方でどうやってファンダムを立ち上げていったか、非常に興味深いセッションだったのでした。セッション終了後急いで柴野拓美のインタビュー集「いつまでも前向きに」と、「宇宙塵200号」をゲット。初期のSFファンダム成立をここまで細かく書いた本があるとは!きちんと記録を取るSFの人たちに本当に感謝したいですね。

 次は押井守神山健治の「実写とアニメの差異」。おお、生押井だ、生神山だと思い見ていたら、即座に爆睡。やっぱり疲れが出ていたんでしょうかねえ。押井守が、「実写映画は他の人に撮ってきてもらって、いいと思ったシーンをつなぎ合わせれば自分の映画になる。撮りたいところだけ、撮りたい役者だけ撮ればいい。画面を全部コントロールしようとすることや、しがらみにとらわれすぎて撮りたい絵を撮ってないことが今の日本映画の問題だ」って述べていたのが印象的でしたね。

 そして最後は、最も楽しみだった「コミックマーケット伝説」です。いきなり「ここはロフトプラスワンですよ」との宣言。そしてあんなことやこんなことをしゃべりまくるのですね。ちょっとここでは書けないようなCのことやAのことやUのことがバリバリ出てきたのでした。楽しー!
 実際私が本格的にコミケに参加したのは有明から。それ以前のことは文献でしか知らないのです。晴海時代のことやTRC時代のことが聞けて、非常にためになり、そして大笑いしたのでした。それからもう一つ感じ入ったのはコミケスタッフの結束の固さ。いやまあ中ではいろいろあるんでしょうが、「ここが我々の場だ」という意識の高さはビンビン感じたのでした。このモラルの高さが、まさに全社会的な闘争の闘技場となってきたコミケという場を支えているのだな、と実感しましたね。

 もう一つ見ようかと思ったのですが、もう緊張の糸が切れまくり。さっさと撤退したのでした。これで今年のSF大会/ワールドコンは終わりです。事前登録3万円でしたが、私にとっては全く高くない、非常に有意義な大会だったのでした。来年のDAICONはちょっと子育て(無事生まれればですが)が大変そうなので無理かもしれませんが、その次には必ずや自分で企画をやってみようと思ったのでした。

ワールドコン三日目

ワールドコン三日目です。

 まずは「SFの中のゴシック・カルチャー」。高原英理の、「ゴスとは悲惨と栄光のはっきりしたコントラストであり、日本にもその要素はあった」「高貴と穢れを往復する『をぐり』はきわめてゴス的である」「高貴と穢れを往復するアナキン・スカイウォーカーもまたゴスである」という言葉には目から鱗。なんか言いくるめられている気もしないでもないですが、久々に「そうだったのかー!」と吃驚したのでした。またゴスクイーン・高柳カヨ子の「ゴスはゾンビであってはならず、白骨でなければならない」「ゴスは白人が着ても似合うが、ゴスロリネオテニー的な日本人でないと似合わない」という言葉にも吃驚。ゴスは死に惹かれる傾向で、はしかみたいなもんかと軽く思っていたのですが、もっともっと根が深いようです。

 次は「星新一とは何者だったのか」。最相葉月新井素子星新一についてしゃべるというものでした。星新一のストイックな姿勢にはこころ動かされましたね。最相葉月のかっちり調べるという姿勢にも。新井素子は初めてご本人を見たのですが、噂通りほやほやの世界に住んでいる人なんだな、という印象でしたね。

 その後は岡部いさくを見に「SFと軍事」へ。ところがここは大入り満員。あまりの男臭のきつさにダウンしそうになり、這々の体で撤退したのでした。

 「おたくスタディーズ」は登壇者8人。昨日のやおいパネルディスカッションより多いではありませんか。通訳なしだったので一人あたりの発言時間は長かったですし、東さんがなんとか共通点を見いだして議論っぽくなったのですが、やっぱり時間が足りずに終わってしまったのが残念でしたね。これは4時間とか5時間とかかけないとダメなんだろうな、と思いましたよ。

 そして最後は「バルバラ異界ポーの一族の間」。おお、おお、目の前に萩尾望都先生が!そして「バルバラ異界は行き当たりばったりに描いた」って言ってます! そのぶっちゃけっぷりに会場は笑いの渦です!萩尾望都先生がこんなにお茶目さんな人だったなんて! うわー生きててよかった!

ワールドコン二日目

 SF大会ワールドコン二日目です。まずは予定を変更して「SF作家クラブ40年史」へ。目的はただ一つ、会員以外には売らないという「40周年記念誌」です。シンポジウムとはいいながら実際は小松左京の独演会の趣でしたね。ただ小松左京はもう自力で歩くことができず、総入れ歯になってしまっていたのですが、頭はしゃんとしています。しかも馬鹿話ばっかり。すげえなあ、と思ったのでした。
 次は「アヴァン・ポップ」。単なる前衛でもなく、単なるポップでもなく、政治的批評性を持った作品を「アヴァン・ポップ」と呼ぶのだそうで。ここでは笙野頼子が大爆発。「村上春樹なんかクソだ」「想像力だけたくましくしたってなんの変化も起きない」「想像力を養おうっていうのは自分が知らず知らずのうちに行っている抑圧をごまかす方便だ」と鋭いこと。外国人の村上春樹研究者が固まっていたのでした。笙野頼子といえば「タコグルメ」くらいしか読んでいないのですが、生きるためにさんざん戦ってきた人の凄みを見せつけられましたね。
 そして主戦場の「やおいパネルディスカッション」ですが…通訳の入るバイリンガルセッションなので、時間が足りなくなるのは仕方ないですね。向こうのスラッシュと日本のやおいの違いは分かりましたが、もう少し突っ込んだ議論が欲しかったのでした。100分予定のセッションで登壇者が7人ですから…。
 後は「コミックマーケットSF大会」。これは米澤嘉博の思い出を語るという会でしたね。米澤嘉博にとってSF大会は落ち着ける場だったとのこと。もともとSF研ですし責任もないから。だから合宿の時はいつもニコニコして話していたそうですね。どんな話題が中心か、と質問してみたのですが、いろんな話題をつなげて話していたとか。歴史を縦に見る人は多いが、米澤嘉博はその時点で面白くなっているいろいろな要素を横につなげて話していたそうですね。それが米澤のバランス感覚につながっていたと。なるほど、と思ったのでした。

 明日は「ゴシックカルチャー」「星新一」「おたくスタディーズ」「バルバラ異界」に行く予定です。どれも見逃せません!

ワールドコン初日

 SF大会初日に行ってきました。ワールドコンでもあるので、外国人が多い多い。みんなおんなじような体格なのには興味を引かれましたね。木みたいなステーキを毎日食ってるんでしょうね。

 まず「ヤングキングのマンガ家さんと遊ぼう」に参加。一昨年もやった企画で、ヤングキングの作家にSF的なお題を出し、自由に描いてもらうというもの。今年の作家は大石まさる才谷ウメタロウ、門間剛の三人。小野寺浩二を楽しみにしていたのですが、この三人も手練れじゃあないですか。しかも描いた絵をじゃんけんでくれるっていうんですから。「横浜の女の子」「銀河鉄道の女の子」「懐かしい宇宙人」といったお題が出て、それぞれヒネリの効いた絵を見せてもらったのでした。
 私はこっそり大石まさるのサイン本をゲット。買ってない本の3巻でしたが。また才谷ウメタロウからサインを頂きました。買ってない本の6巻でしたが。それでも作家さんの生の絵があるって素晴らしいことです。

 次に「セクシュアル・ジャパン――SF/SM的想像力の行方」に参加しようと思ったのですが、大盛況で断念。外まで人があふれてるんですもの。そこで「時刊新聞」などを読みながら時間をつぶし、「村上春樹の子供たち」に参加しました。大森望小川隆が、村上春樹の流れを継ぐ「スリップストリームノベル」の作家たちを、英語で紹介するというものです。段々会場が寂しくなっていきましたが、英語圏の人に今の日本の文学潮流を示すことは出来たのかな、なんて思いましたね。そもそも私は全然小説を読んでいないので、なんとも言えないのですが。ただ外国人の参加者の反応を見ると、英訳の受容はかなりあるように思えましたね。なんたっておたく文化がどんどん輸出され、「クールジャパン」というご時世ですから。

 明日は「コミックマーケットとは何か」「アヴァンポップ」「やおいパネルディスカッション」「コミックマーケットSF大会」に参加する予定です。「やおいパネルディスカッション」は私の主戦場なので、気合いを入れていきますよ!