日本記号学会大会「遍在するフィクショナリティ」

 この5月10、11日と、京大で日本記号学会の大会「遍在するフィクショナリティ」が開かれました。BLを扱ったシンポジウム「すべての女子は《腐》をめざす─BLとフィクショナリティーの現在」が開かれるというので、日程が合えば行ってみたいと思っていたのですが、あいにく行くことができませんでした。ところがそこではとんでもないことが起こっていたようなんですね。
 シンポジウムの登壇者は横浜国立大の清田友則さんと、『やおい小説論』の永久保陽子さん。司会は横浜国立大の室井尚さんです。
 シンポジウムの途中から進行が怪しくなり、質疑応答で司会とパネリストの姿勢に対して聴衆から不満が噴出。抗議の声を上げる質問者や男子学生に対し、司会の室井さんが「BLなんてクソだ」「滅んでしまえばいい」などと発言し、「炎上」したようなんですね。

font-daさんのブログ「キリンが逆立ちしたピアス」でのレポート
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080510/1210438151

ayuasanoさんのブログ「vivement mercredi!」
http://d.hatena.ne.jp/ayuasano/20080513/1210687953

翌日の別のシンポジウムの登壇者でもある千野帽子さんのブログ「0007 文芸檸檬
http://d.hatena.ne.jp/chinobox/20080513/1210647064
http://d.hatena.ne.jp/chinobox/20080513/1210658254
http://d.hatena.ne.jp/chinobox/20080514/1210688227

司会の室井尚さんのブログ「短信」
http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2008/05/post_df4f.html

三者的視点から書かれたdemianさんの「Demilog」
http://d.hatena.ne.jp/demian/20080513/p3

ozimさんの「ひびのこと。」
http://d.hatena.ne.jp/ozim/20080510

 この他、直接その場に居合わせた方(司会の運営に批判的な方)からお話をうかがっています。

 私はその場に居合わせておらず、どういう不満の声が上がったのか、どういう文脈で室井さんが発言したのかは分かりません。ですからシンポジウムの場で起こったことについては判断を保留したいと思います。ただ司会の室井さんと、質問に立った方々との間には認識の大きなずれがあること、それから室井さんのブログにはいくつもの重大な疑問点があることは分かります。

 まず室井さんが意図していたシンポジウムの「ストーリー」はこうです。

ぼくの思惑は、このようなストーリーこそが「フィクショナリティ」であり、そうしたフィクショナリティが一般化され、「有力な商品」として消費の欲望の対象になってしまうという現代的な状況を記号論的に暴き出せないかということだった。確かに以前の「やおい」の女の子たちは複雑な性意識を投影しており、そこには何かしら日の当たるところには出せないうしろめたさのようなものがあったに違いない。だが、現在のあまりにメジャーになった「BL」の愛好家たちはもはやそのような背徳的な暗さとは無縁に、一般に認知された商品としてあけすけにそれを消費しているようにしか思えない。オタクやコスプレに関しても同じようなことが言える。この変化は一体なんなのだろうか?

一方で、清田君の作り出そうとしたストーリーは、自らのセクシュアリティジェンダーをこのような屈折した回路に注ぎ込んで行く「腐女子」たちの中に、セクシュアリティ一般の向かう方向を見出していけないかというようなものだった。この流れで言えば、すべての「女子」ばかりではなく、すべての「人間」は腐女子を目指しているということになる。そして、そこにはファロス中心主義やゲイ、レズビアン、クイアなどに関するこれまでの議論を超えていく、人間の自らのセクシュアリティとの関わり方を解く鍵があるかもしれないという期待もこめられている。

 「現在のあまりにメジャーになった「BL」の愛好家たち」という書き方からして、ろくに調査せず、先入観だけで語っていることがはっきりと分かります。どうやら室井さんの前提として、かつての屈折したBLの受け手はセクシュアリティの問題に踏み込んでいたが、現在の受け手は「データベース的」にBLを消費するだけで、フィクショナリティを持つ文化産物が持っている、現在の社会の問題を解き明かす部分に踏み込んでいないという認識があるようなんですね。ちょっとブログ検索をかければ、そんな単純な区別ができないことくらい、即座に分かると思うのですが。
 また「清田君」(登壇者の清田友則さん)の描こうとするストーリーも、随分乱暴なものです(室井さんの文章なので、清田さんの意図通りではないかもしれませんが)。確かに「自分たちのセクシュアリティの解放を自分たちでかちとっていく」BLは、現在のセクシュアリティのあり方を揺るがしていく、非常にクィアな行為だといえますし、それが「これまでの議論を超えていく」部分を持っているのは間違いないでしょう。ですが「すべての「人間」は腐女子を目指していいる」という書き方には、「自分たちで自分たちのセクシュアリティの解放を勝ち取らなくてはならない」というイデオロギーが現れています。「勝ち取る」タイプでないセクシュアリティは、セクシュアリティのあり方として劣っているという認識がうかがえるのですね。受動的なセクシュアリティもあれば、搾取的セクシュアリティもあります。そうした様々なセクシュアリティのあり方を前提としない議論は、極めて限定的な実りしか生まないと思います。

 質疑応答での混乱について、室井さんはこう書きます。

このまま終わらせたのでは、今回の学会の企画意図が完全に潰されると思ったため、こちらからキレて、質問を封じるという実力行使に出ることにした。

ここは記号学会である。みんなが同じ価値観を共有したり、スーパーマーケットの商品コーナーにそれが好きな人が集まって情報交換したりするようなことではなくて、異なる価値観、異なる専門領域を持つ人たちが境界を越えて行こうとする場なのだ。ぼくたちがこのセッションで試みたのもそれであり、そうではないオタク・トークはどっかよそでやってくれというようなことを言ったのだが、明らかに全くそれが通じない人たちがいたし、その一部は次の日のパネリストであった。

 その場の状況は分からないのですが、どうひいき目に見ても、前段と後段は明らかに矛盾していますね。「境界を越えていこう」とする姿勢が、どうして「こちらからキレて、質問を封じる」ことになるのでしょう。論理的にも疑問ですし、学問に携わる者としての態度としても疑問です。
 そしてこのあとの部分では、現在のBL・おたく文化の受容のあり方を、「データベース的消費」として「劣ったもの」としています。人間の心の機微をとらえることができない消費のあり方としています。これまたそんな単純な話ではないはずなのですが。むしろそうした単純な割り切りをしてしまえる考え方に、逆に感心してしまいます。ちょっとでも実際に触れてみれば、そこにある豊穣さはすぐに分かると思うのですが。表現を通じて人間が描き出そうとする心の問題は、流通や表現の方法は変わりますが、本質的には変わらないと思うのですが…。

 問題なのは、こうした「BLについてろくに調べていない/知らない」人、BLをはじめとしたおたく文化を「データベース的消費」として切り捨てる人によって、BLが取り上げられ、語られようとしたことですね。その場の雰囲気や文脈が分からないので、実際どうだったかは分かりませんが、室井さんの書かれたことを見ると、どのように扱われたかおおよそ想像はつきます。地位のある大学の先生がBLをネタにしようとしたのでしょうね。それって明らかに搾取なんですけど。そして搾取する側がそれに無自覚である分、たちが悪いんですけど。
 「実際にはどうだったのか」を確かめた上で、はっきりと声を上げていきたいと思います。