転載・「かしまし」と男の子の生きにくさ

●以前「再イオン化」で書いたものの転載です。

 「かしまし」が気になっています。「電撃大王」連載中で、アニメも放送中の。

 宇宙船にぶつかられた結果、遺伝子レベルから女の子になってしまった男の子・はずむの物語です。男の子だったときは、ガーデニングが趣味の、クラスの中でも目立たない存在。ですが女の子になると、とたんに明るくなります。女の子になることで、幼なじみで活発なとまり、美少女ですが孤独なやす菜との恋も成長していきます。

 象徴的なのは、男の子だったときのはずむは、常に目が隠れて描かれることです。行動もはっきりしません。男の子の時のはずむは、「ほんとうの自分ではない」ことが、明に暗に示されるのですね。はずむは、女の子になることによって解放され、「ほんとうの自分」になるのです。そして女の子との恋愛も可能になるのです。

 あかほりさとるが原作なので、基本的にはあまり面倒なことは考えていないでしょう。百合ブームに乗って、女の子どうしの恋愛を描こう。主人公がもと男なら、読者のほとんどを占める男の子からの共感も得やすいだろう…といったことぐらいしか考えていないのではと思われます。ですが、はずむの姿には、読者として想定されている男の子たちの「生きにくさ」が、強く反映されているように思えてなりません。

 生きにくい男の子の内面には、「女の子になりたい」という気持ちがどこかにあるのだと思います。女の子になれば女の子と親しくおしゃべりすることができる。女の子になればおしゃれなどが気兼ねなくできる。女の子になればなにもしなくてもちやほやしてもらえる…。女の子になって生き生きしているはずむの姿には、そうした願望が投影されているように思えてなりません。そしてそれは、「男である」「男らしく振る舞うことを期待される」「男としてのライフコースを選択することを迫られる」男の子たちが抱えるであろう苦しさを反映しています。また、女の子と上手く接することができないために、女の子には縁がないだろうと絶望している男の子たちの気持ちも反映しているでしょう。普段は女の子にはまったく近づくことはできませんが、女の子になれば合法的に仲良くなることができるのです。なんという絶望!

 ここに書いた「生きにくさ」は、私がかつて感じていた生きにくさや絶望から想像したものなので、現在の若い人たちの生きにくさとは別物の可能性があります。ですが、当たらずといえども遠からずなのではないか、と感じています。実際本当に女性との接触可能性がない男子はいますし、自分からその可能性を閉ざしている男子もいます(本人としては閉ざしているつもりはないんでしょうが)。

 「女の子になりたい」と思うことで、常日頃感じている「生きにくさ」からの逃避をはかる…そう評するのは簡単です。ですがこの作品の裏には、非常に深刻な自我とコミュニケーションの危機が隠れているような気がしてなりません。そして、「女の子になりたい」と思うことが、男の子の救いになり得ている(気休めかもしれませんが)ということに、問題の根深さを感じます。