一夫一婦制は大切?

 「ながされて藍蘭島」を見ましたよ。女しかいない孤島に漂着した主人公の男の子が、いろんなタイプの女の子とうんぬんかんぬん、という作品なのですが、今回は鬼ごっこの話でしたね。日没までに主人公を捕まえた女の子が主人公と結婚できるというルールで、ハイテンションなドタバタを繰り広げる、という。ギャグのテンポがよかったですし、なんたってテレ東にしてはエロエロ。楽しく見ることができたのでした。

 ところが一つ気になったことが。かわいい少女しかいない島…という段階で論理性を求めるのもヤボではあるのですが、なんか異様に「結婚」にこだわってるんですね。男がいないんだから、よしながふみの「大奥」みたいに種馬になりゃあいいのに、そうすれば主人公もウハウハなのに…と、80年代ハーレムラブコメを経験してきた私は考えてしまったのでした。ところが主人公は、争奪戦という形で結婚相手を決めるのは嫌だと、追いかける女の子の群れから逃走するのですね。ハーレムを選択するのではなく、恋愛感情に基づく結婚を選択しようとするのです。また女の子たちも、男がいなくなってしまって子孫を残すことができないという危機なのに、主人公を利用しようとはせず、「結婚」という形にこだわります。これってどういうことなんでしょうか。

 読み取れるのは、男の子にも女の子にも、「恋愛して結婚することこそが正常な男女の関係である」「一夫一婦制を堅持することが正常である」という大前提があることです。主人公の男の子は、「好きという気持ちがなければ女の子に手を出しちゃいけない」と考えていて、それが男の誠実さであると考えています。うわー童貞的ー。女の子たちもどんな関係を望むかについては様々ですが、主人公と結婚したら他の女は手を出せないと考えています。唯一の資源を持つことが権力につながり、だから争奪戦が生じてドタバタになるという読みもできますが、どう見てもそこまで考えてないでしょう。結婚が神聖視されていることには変わりありません。

 送り手側は、「恋愛結婚を神聖視することが受け手の望むことである」と考えていることが分かります。そしてそれは多分に受け手からの実際の要請に応えたものなんでしょうね。つまりはこの作品を見る男の子たちにとって、複数の女の子と性的関係を持つことはリアルではないのでしょう。求めているのは「純愛」というか、ひとりの女の子との安定した関係であることが分かります。その一方で選択肢の幅は広く取りたい。そこで「かわいい女の子しかいない島」という舞台が設定されたのではないでしょうか。なんだか実に興味深いですね。「少しでも多くの女の子とヤルために多くの女の子を登場させる」というエロゲーみたいな単純な図式は今は昔。「うる星やつら」の頃からあたるは屈折していましたが、やっぱり屈折しているんですねー。

 これはおたく第3〜4世代、特にまさに今通学中の男の子たちのメンタリティの現れであるように思いますが、世代によらずおたく男性が多かれ少なかれ思っていることなんじゃないかな、と思います。一夫一婦制の神聖性にこだわるのは、恋愛に積極的になれない自分への言い訳だったりするんですよね。「俺はあんなナンパヤローとは違う」ってことにして、恋愛できない自分を正当化しようとするんですよね。ていうか私もそうでした。切ない話です。

 ま、堀江を特権化・聖域化しようとするスタチャの強い意図の現れっていうだけのことかもしれませんがね。