ドラマトゥルギーは大切か?

 「ながされて藍蘭島」のあとは「ギガンティック・フォーミュラ」を見ましたよ。「キディ・グレイド」「うたかた」と、不可解極まりない超展開作品を連発してかましてくれた、きむらひでふみ後藤圭二のコンビです。どういう超展開をかましてくれるかと期待していたら、やっぱりやってくれました。

 主人公のかみちゅみたいな男の子は、先週ロボに乗って中国の侵略を撃退したのですが(このへんもすごい)、今週はあっさりロボを降りることをにこやかに宣言します。「だってそういうのは兵隊がやることでしょ、ボクそんなの関係ないから。さよなら」と。中華孫悟空ロボが再び襲来する中、男の子はシェルターに避難します。すると見ず知らずの男の子がやってきて、「乗らないのか」と迫ります。「でも怖いし」と応えた主人公は、膝を抱えてしまいます。そのとき一緒に乗っていた女の子のことが思い出されます。「戦って勝って」と、以前男の子に告げた台詞が思い出されます。すると主人公は勃然と「乗る」と言い出すのですね。おーい、生きるか死ぬかの戦いに、そういう選択でいいんですかー? 大切な大切な(と、きむら&後藤は考えてるっぽい)「日本」を守るための戦いに主体的に関わることになるってことに気づいてますかー?
 結局主人公は孫悟空ロボを一刀両断し、中国と日本の戦争は日本の勝利で終わります。国連が認めた正式な戦争で、ロボの勝ち負けで勝敗が決まりますから、これから中国は日本の支配下になります。なんと素晴らしい! それでもロボはあと10体ありますから、戦いは続きます。主人公は敗戦国のパイロットを見てちょっと複雑な顔をしますが、「乗らない」なんて言ったことはすっかり忘れてしまっているようです。

 「うたかた」「キディ」の2作品がなぜ不可解極まりなかったかというと、キャラクターがなぜそういう選択をしたかという心理描写の多くを、ばっさり切り捨てていたからでした。我々に見せられるのは選択の結果のみ。ストーリーラインは確かに一応つながっていて、「お話」になってはいるのですが、時にはなぜそういう展開になるかまったく分からないこともしばしば。かわいい女の子が特別な力を使ってみせたりなんかSFな展開になったりはするんですが、根本的なところで疑問が残る…というか、<わけがわからない>作品だったのでした。
 そんなわけですからこの作品でもすっ飛びっぷりを期待していたのですが、まさしく期待通り。主人公がなぜ「乗る」という選択をしたかサッパリ分かりませんし、それがどんな意味を持つかについても、主人公もスタッフも考えてないようなのです。与えられた条件を考えると、主人公はロボに乗るという展開になるはずなので、やっぱり主人公はロボに乗りましたー、って感じなんですね。うーん、それでいいんでしょうかね。

 この姿勢はどこから生まれるのでしょう。それはドラマ性に根本的に信頼を置いていない、ということではないでしょうか。物語のドラマ性は、物語の振幅そのものにも表れますが(韓国ドラマが良い例でしょう)、登場人物の心理描写に大きく拠っていると思います。登場人物が何を考え、どんな感情を持ち、そして何を選択するか。その描写に人はドラマ性を感じるのだと思います。ところがきむら&後藤の作品は、心理描写に重要性を見いだしておらず、ストーリーを語ることを急ぎます。ストーリー性絶対主義とでも言うんでしょうか、物語さえ語られていれば、人物たちの内面描写は必要ない、という姿勢であるかのように見えます。

 現在のおたく文化の全体的な動きを考えると、心理描写重視の傾向ははっきりあると思います。なぜならばそれが「萌え」を構成するのですから。ですがその一方で、心理描写なんてなくてもいい、とはっきりとした姿勢を打ち出す作品も表れています。そりゃもちろん物質的な制約によって心理描写どころの騒ぎじゃない、という作品もあるでしょう。このアニメの制作本数なら無理もない話です。ですがはっきりと心理描写は不要とする姿勢を打ち出すことの裏には、また何か別の動きが起こっているように思います。
 このことについては、これからちょっと考えて行かなきゃならないかな、と思いますね。なぜならそれは、私の主な関心領域である、「80年代」に深く関わっているように思いますから。ちと調べてみようかと思ってます。