「ネタにする」ことの功罪
例のイベントに行ってから、「ネタにすること」の善し悪しについて考えています。唐沢俊一に代表されるおたく第一世代は、変なものをネタにして、笑い飛ばしてきました。その笑いのパワーが、そしてエンターテイメントとしての楽しさが、おたく文化の形成に貢献したのは間違いないでしょう。実際私も唐沢俊一の仕事は大好きで、それを手がかりにおたく文化研究の道に入ったのです。ですがずっと引っかかっていたのですね。ネタにすることには何かよろしくない点があるのではないかと。そこでちょっと考えてみましたよ。
*ネタにすることの利点
(1)楽しみとして面白い
これについてはあまり説明の必要はないでしょう。
(2)抑圧からの解放
ネタにされる対象は多かれ少なかれ抑圧を受けているものです。社会的に無視されるか、「なかったこと」にされてきたものです。それを「笑う」ことによって、可視化された存在に、有徴化された存在にすることができます。そしてそこにある権力の編み目を可視化して、その編み目からどう脱出することができるかを考えることが可能になります。「笑う」ことは「解放」につながるのですね。
(3)オルタナティブな視点の提示
それまで見えなかったものを見えるようにすることは、それまでの「常識」を揺るがします。そして見えなかったものを参考にすることで、これまでとは違った対応や行動を可能にします。
(4)人間の無意識の深さを目の当たりにする
そしてネタにされるものの多くは、人間の無意識に深く突っ込んだものです。その姿を見ることによって、私たちは人間の無意識の度し難さ、わからなさにこころ動かされます。それは狂気を呼び起こしもしますが、人間の精神世界の豊穣さを知ることでもあります。
*ネタにすることの問題点
(1)ネタにする側とされる側との間に権力性と不均衡が発生する
ネタにする側はそのことによって利益を得るので、資源の不均衡が発生します。その結果ネタにされる側がネタにする側に、精神的・経済的に依存する可能性があります。そうなるとされる側がする側に従属し、する側はされる側に権力を行使することができるようになります。また名声の上がり方にも不均衡があって、する側の名声の上がり方の方が高いです。因果なサブカル系でよく見られた構造ですね。
(2)される側がさらし者になる可能性
ネタにするやり方によっては、される側が世間のさらし者になる可能性があります。テレビに代表されるマスメディアは基本的に搾取的で、もっともインパクトのある形でネタにされる側を紹介しようとします。それは非常に極端なものであるために、される側の社会的生命を脅かす可能性があります。そしてそれはマスメディアでなくてもやってしまう可能性があります。
(3)ネタにすること自体に潜む暴力性
ネタにされる側は、ネタにされることを望むとは限りません。そうした状況の中で無理矢理ネタにしようとすることは、非常に暴力的なことといえるでしょう。また(1)で見たように、する側とされる側には権力関係が発生しやすいですから、される側は意見を言いにくかったり、意見を封殺される可能性もあります。
(4)ネタにする側の無自覚
そして一番問題なのが、ネタにする側が自分の行動に権力性・暴力性が潜んでいることに気づいていないことが多いということでしょう。確かにネタにする側とされる側の間に、「切断」があってこそ、対象を分析することが可能になります。相手のことを慮ることを断念してこそ、ネタにすることができるわけです。
ですがだからといって、ネタにされる側の尊厳や誇りを踏みにじってよいわけではありませんし、される側を従属させていい訳ではありませんし、外の立場から対象を笑いものにしてよいわけではありません。
される側の無意識の深淵に踏み込む危険を冒さずして、上から対象を語ろうとすることは、動物園の動物を見るのと同じようなもので、対象を檻に入れて檻の外から語ろうとするようなものです。楽しむ視線もありますが、暴力性とさげすみに似た視線がつきまといます。「愛を持って語るから」という言葉は免罪符にはなりません。愛を持って語ったとしても、ネタにされる側と同じ地平に立ち、その人への共感がなければ、対象を見せ物にして搾取することと変わりないのです。
ネタにすることの利点は非常に多くあると思います。だからこそそれを生かすためにも、ネタにすることの権力性、ネタにすることの暴力性を常に自覚していかないといけないな、と思うのですね。無意識の深淵に沈み込んでしまうと分析はできなくなってしまいますから、分析対象と全く同じ立場からの発話はできないのは当然です。ですがそれでも、相手と同じ地平に立とうとし、相手の無意識に踏み込んでいくことは可能なはずです。
上から語るのではなく、横から語る…これが必要な態度なのでしょう。自分も気をつけていかなきゃな、と思いますね。