弱い者たちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く

 先週土曜日は研究会。最近立て続けに出版されているおたく関係の本についてみんなで語り合おうという、肩の力の抜けた会でした。なかでも話題になったのは、今あちこちで話題になっている、金田淳子さんの「マンガ同人誌―解釈共同体のポリティクス」

文化の社会学 (有斐閣アルマ)

文化の社会学 (有斐閣アルマ)

(吉見俊也、佐藤健二編『文化の社会学有斐閣、2007収録)でした。

 この論文は、やおい同人の人たちを社会学的に分析するという点で、画期的なものですね。例えばやおい同人は、原作を意図的に誤読し、その誤読のコードを共有する「解釈共同体」だとしています。また同人世界にも競争があり、競争力を決めるのは「愛」「技術」「人気」「カタギらしさ」の4つの文化資本だとしています。そしてやおい同人にとってやおいとは、男性から性的に「まなざされる」ことを回避しつつ、性的に「まなざす主体」になることができることと、実際の性経験にとらわれずに性的ファンタジーを語ることができることの二つの意義があるとしています。この意義については川原和子さんの「マンガラブー」などで触れられていますね。

 なかでも私が注目したのは、やおい同人女性たちは、おたくであることに対してアンビバレントな視線を持っているとしていることです。やおい同人たちは、自分たちがおたくであること、腐女子であることをひた隠しにします(いみじくも例として「電脳やおい少女」が挙げられていますね)。それは隠した方が仲間内の結束力が高まり、楽しくなるからでもあります。ですがその一方で、おたくであることは「まっとうな」社会生活からの落伍なのではないか、特に恋愛という、世間に強く要求されることからの脱落になるのではないかという、強い恐れも抱いています。そのためやおい同人においては、同人であることがバレないこと、「カタギらしく」あることが重要な文化資本になるというのです。社会に適合しながらやおい同人もやるという人が、「あるべきやおい同人」の姿として提示されているのです。

 このことは、男性でも頷けることですし、女性ならなおさらでしょう。「げんしけん」があれだけの人気と共感を得た背景には、げんしけんが隠れオタサークルだったから、モロなオタサークルが仮想的として設定されていたからです。オタであることは、「スティグマ化された」アイデンティティ、つまり最初から否定的な烙印を押されたアイデンティティなのです。ですから見た目がおたくっぽくならないことは最低条件であり、見た目も行動もいかにもおたくっぽいということは、おたくにとって敗北なのです。

 このことは、きわめて日常的に感じられることです。また最近のおたく論、やおい論でも強調されることです。「おたくは普通なんだ」「見た目や行動がおたくっぽいのは、おたくの中でも少数派なんだ」ということですね。
 ただこの考えは、重大な差別の構造を持ってはいないでしょうか。外見を普通っぽくする努力を断念した人は、やはりはっきりと存在します。そしてそうした人は、おたくでない人からさげすまれるだけでなく、外見が普通なおたくからもさげすまれているのではないでしょうか。彼らは二重に差別を受けているのではないでしょうか。そして外見が普通なおたくは、自分たちも「普通じゃない」と思いながら、スティグマ化されていると感じながら、いかにもおたくっぽい外見や行動の人をさげすんで安心しているのではないでしょうか。「弱いものたちが夕暮れ さらに弱いものを叩く」って歌が思い出されますなあ!

 金田淳子さんは、こうした構造は私たちのポピュラーカルチャーにあまねく存在する要素だと述べています。そしてこの本は大学のテキストとして使われることを想定しているため、金田さんはこの問題に対する答えを出してはいません。この問題の解決法についての何らかの示唆があればなあ、とも思ったのですが、まあ本の性質上仕方ないでしょう。ともあれ、おたくをめぐる状況にはこうした二重の抑圧構造があるのであり、自分は低い位置にいる、と考えているおたく自身、「さげすむ主体」となっていることを明らかにしただけでも、意義のある論文だと思っています。問題が見えてこなければ、問題に対処することもできませんしね。

 これから必要なのは、どうやってこの問題に対処するかを考えることでしょうね。

ドラマトゥルギーは大切か?

 「ながされて藍蘭島」のあとは「ギガンティック・フォーミュラ」を見ましたよ。「キディ・グレイド」「うたかた」と、不可解極まりない超展開作品を連発してかましてくれた、きむらひでふみ後藤圭二のコンビです。どういう超展開をかましてくれるかと期待していたら、やっぱりやってくれました。

 主人公のかみちゅみたいな男の子は、先週ロボに乗って中国の侵略を撃退したのですが(このへんもすごい)、今週はあっさりロボを降りることをにこやかに宣言します。「だってそういうのは兵隊がやることでしょ、ボクそんなの関係ないから。さよなら」と。中華孫悟空ロボが再び襲来する中、男の子はシェルターに避難します。すると見ず知らずの男の子がやってきて、「乗らないのか」と迫ります。「でも怖いし」と応えた主人公は、膝を抱えてしまいます。そのとき一緒に乗っていた女の子のことが思い出されます。「戦って勝って」と、以前男の子に告げた台詞が思い出されます。すると主人公は勃然と「乗る」と言い出すのですね。おーい、生きるか死ぬかの戦いに、そういう選択でいいんですかー? 大切な大切な(と、きむら&後藤は考えてるっぽい)「日本」を守るための戦いに主体的に関わることになるってことに気づいてますかー?
 結局主人公は孫悟空ロボを一刀両断し、中国と日本の戦争は日本の勝利で終わります。国連が認めた正式な戦争で、ロボの勝ち負けで勝敗が決まりますから、これから中国は日本の支配下になります。なんと素晴らしい! それでもロボはあと10体ありますから、戦いは続きます。主人公は敗戦国のパイロットを見てちょっと複雑な顔をしますが、「乗らない」なんて言ったことはすっかり忘れてしまっているようです。

 「うたかた」「キディ」の2作品がなぜ不可解極まりなかったかというと、キャラクターがなぜそういう選択をしたかという心理描写の多くを、ばっさり切り捨てていたからでした。我々に見せられるのは選択の結果のみ。ストーリーラインは確かに一応つながっていて、「お話」になってはいるのですが、時にはなぜそういう展開になるかまったく分からないこともしばしば。かわいい女の子が特別な力を使ってみせたりなんかSFな展開になったりはするんですが、根本的なところで疑問が残る…というか、<わけがわからない>作品だったのでした。
 そんなわけですからこの作品でもすっ飛びっぷりを期待していたのですが、まさしく期待通り。主人公がなぜ「乗る」という選択をしたかサッパリ分かりませんし、それがどんな意味を持つかについても、主人公もスタッフも考えてないようなのです。与えられた条件を考えると、主人公はロボに乗るという展開になるはずなので、やっぱり主人公はロボに乗りましたー、って感じなんですね。うーん、それでいいんでしょうかね。

 この姿勢はどこから生まれるのでしょう。それはドラマ性に根本的に信頼を置いていない、ということではないでしょうか。物語のドラマ性は、物語の振幅そのものにも表れますが(韓国ドラマが良い例でしょう)、登場人物の心理描写に大きく拠っていると思います。登場人物が何を考え、どんな感情を持ち、そして何を選択するか。その描写に人はドラマ性を感じるのだと思います。ところがきむら&後藤の作品は、心理描写に重要性を見いだしておらず、ストーリーを語ることを急ぎます。ストーリー性絶対主義とでも言うんでしょうか、物語さえ語られていれば、人物たちの内面描写は必要ない、という姿勢であるかのように見えます。

 現在のおたく文化の全体的な動きを考えると、心理描写重視の傾向ははっきりあると思います。なぜならばそれが「萌え」を構成するのですから。ですがその一方で、心理描写なんてなくてもいい、とはっきりとした姿勢を打ち出す作品も表れています。そりゃもちろん物質的な制約によって心理描写どころの騒ぎじゃない、という作品もあるでしょう。このアニメの制作本数なら無理もない話です。ですがはっきりと心理描写は不要とする姿勢を打ち出すことの裏には、また何か別の動きが起こっているように思います。
 このことについては、これからちょっと考えて行かなきゃならないかな、と思いますね。なぜならそれは、私の主な関心領域である、「80年代」に深く関わっているように思いますから。ちと調べてみようかと思ってます。

一夫一婦制は大切?

 「ながされて藍蘭島」を見ましたよ。女しかいない孤島に漂着した主人公の男の子が、いろんなタイプの女の子とうんぬんかんぬん、という作品なのですが、今回は鬼ごっこの話でしたね。日没までに主人公を捕まえた女の子が主人公と結婚できるというルールで、ハイテンションなドタバタを繰り広げる、という。ギャグのテンポがよかったですし、なんたってテレ東にしてはエロエロ。楽しく見ることができたのでした。

 ところが一つ気になったことが。かわいい少女しかいない島…という段階で論理性を求めるのもヤボではあるのですが、なんか異様に「結婚」にこだわってるんですね。男がいないんだから、よしながふみの「大奥」みたいに種馬になりゃあいいのに、そうすれば主人公もウハウハなのに…と、80年代ハーレムラブコメを経験してきた私は考えてしまったのでした。ところが主人公は、争奪戦という形で結婚相手を決めるのは嫌だと、追いかける女の子の群れから逃走するのですね。ハーレムを選択するのではなく、恋愛感情に基づく結婚を選択しようとするのです。また女の子たちも、男がいなくなってしまって子孫を残すことができないという危機なのに、主人公を利用しようとはせず、「結婚」という形にこだわります。これってどういうことなんでしょうか。

 読み取れるのは、男の子にも女の子にも、「恋愛して結婚することこそが正常な男女の関係である」「一夫一婦制を堅持することが正常である」という大前提があることです。主人公の男の子は、「好きという気持ちがなければ女の子に手を出しちゃいけない」と考えていて、それが男の誠実さであると考えています。うわー童貞的ー。女の子たちもどんな関係を望むかについては様々ですが、主人公と結婚したら他の女は手を出せないと考えています。唯一の資源を持つことが権力につながり、だから争奪戦が生じてドタバタになるという読みもできますが、どう見てもそこまで考えてないでしょう。結婚が神聖視されていることには変わりありません。

 送り手側は、「恋愛結婚を神聖視することが受け手の望むことである」と考えていることが分かります。そしてそれは多分に受け手からの実際の要請に応えたものなんでしょうね。つまりはこの作品を見る男の子たちにとって、複数の女の子と性的関係を持つことはリアルではないのでしょう。求めているのは「純愛」というか、ひとりの女の子との安定した関係であることが分かります。その一方で選択肢の幅は広く取りたい。そこで「かわいい女の子しかいない島」という舞台が設定されたのではないでしょうか。なんだか実に興味深いですね。「少しでも多くの女の子とヤルために多くの女の子を登場させる」というエロゲーみたいな単純な図式は今は昔。「うる星やつら」の頃からあたるは屈折していましたが、やっぱり屈折しているんですねー。

 これはおたく第3〜4世代、特にまさに今通学中の男の子たちのメンタリティの現れであるように思いますが、世代によらずおたく男性が多かれ少なかれ思っていることなんじゃないかな、と思います。一夫一婦制の神聖性にこだわるのは、恋愛に積極的になれない自分への言い訳だったりするんですよね。「俺はあんなナンパヤローとは違う」ってことにして、恋愛できない自分を正当化しようとするんですよね。ていうか私もそうでした。切ない話です。

 ま、堀江を特権化・聖域化しようとするスタチャの強い意図の現れっていうだけのことかもしれませんがね。

転載・「かしまし」と男の子の生きにくさ

●以前「再イオン化」で書いたものの転載です。

 「かしまし」が気になっています。「電撃大王」連載中で、アニメも放送中の。

 宇宙船にぶつかられた結果、遺伝子レベルから女の子になってしまった男の子・はずむの物語です。男の子だったときは、ガーデニングが趣味の、クラスの中でも目立たない存在。ですが女の子になると、とたんに明るくなります。女の子になることで、幼なじみで活発なとまり、美少女ですが孤独なやす菜との恋も成長していきます。

 象徴的なのは、男の子だったときのはずむは、常に目が隠れて描かれることです。行動もはっきりしません。男の子の時のはずむは、「ほんとうの自分ではない」ことが、明に暗に示されるのですね。はずむは、女の子になることによって解放され、「ほんとうの自分」になるのです。そして女の子との恋愛も可能になるのです。

 あかほりさとるが原作なので、基本的にはあまり面倒なことは考えていないでしょう。百合ブームに乗って、女の子どうしの恋愛を描こう。主人公がもと男なら、読者のほとんどを占める男の子からの共感も得やすいだろう…といったことぐらいしか考えていないのではと思われます。ですが、はずむの姿には、読者として想定されている男の子たちの「生きにくさ」が、強く反映されているように思えてなりません。

 生きにくい男の子の内面には、「女の子になりたい」という気持ちがどこかにあるのだと思います。女の子になれば女の子と親しくおしゃべりすることができる。女の子になればおしゃれなどが気兼ねなくできる。女の子になればなにもしなくてもちやほやしてもらえる…。女の子になって生き生きしているはずむの姿には、そうした願望が投影されているように思えてなりません。そしてそれは、「男である」「男らしく振る舞うことを期待される」「男としてのライフコースを選択することを迫られる」男の子たちが抱えるであろう苦しさを反映しています。また、女の子と上手く接することができないために、女の子には縁がないだろうと絶望している男の子たちの気持ちも反映しているでしょう。普段は女の子にはまったく近づくことはできませんが、女の子になれば合法的に仲良くなることができるのです。なんという絶望!

 ここに書いた「生きにくさ」は、私がかつて感じていた生きにくさや絶望から想像したものなので、現在の若い人たちの生きにくさとは別物の可能性があります。ですが、当たらずといえども遠からずなのではないか、と感じています。実際本当に女性との接触可能性がない男子はいますし、自分からその可能性を閉ざしている男子もいます(本人としては閉ざしているつもりはないんでしょうが)。

 「女の子になりたい」と思うことで、常日頃感じている「生きにくさ」からの逃避をはかる…そう評するのは簡単です。ですがこの作品の裏には、非常に深刻な自我とコミュニケーションの危機が隠れているような気がしてなりません。そして、「女の子になりたい」と思うことが、男の子の救いになり得ている(気休めかもしれませんが)ということに、問題の根深さを感じます。

はてダを始めます

 これまでココログを使っていろいろなことを書いてきましたが、おたくややおいについての分析や、イベントの記録などは、こちらに書いていきたいと思います。やっぱ評論やるならはてダでしょ、というミーハー根性です。

 ぼちぼちやっていきますので、よろしくお願いします。