インディペンデント系作品4本立て

 9時からアニマックスで短編アニメ特集をやってました。「星空キセキ」「カクレンボ」「レター」「はなれ砦のヨナ」の四本立て。コミックス・ウェーブがプロデュースしたインディペンデント系作品を放送するってことのようですね。

 「カクレンボ」は面白かったですね。いかにもヨーロッパ人が喜びそうな逆オリエンタリズムに満ちてはいますが、ちゃんとアニメとして成り立ってます。「レター」は卒業制作ですからこんなものかと。「星空キセキ」はヒドいの一言でしたね。「こんな女の子いたらいいな」という男性の願望が前面に出まくっているものですから、女の子の台詞や動作がいちいち自然じゃなく、わざとらしいのですね。お話の展開やつなぎ方も不自然でしたし。「ほしのこえ」のヒットに呼応して作られたプチセカイ系作品のようですが、「ほしのこえ」のダメな部分(思い入れが強すぎることなど)を、10倍くらい煎じ詰めたような作品だったのでした。「はなれ砦のヨナ」もまた、主人公の幼女への思い入れが強すぎるなど、お話の上では感心できない作品でした。ですが一人でここまでクオリティの高いCGを作れるというのは、大きな可能性だなと思いましたね。

 こうしたインディペンデント系作品が販路を得るようになってきたのは、非常に興味深くも面白いことだと思いますね。独りよがりの、変な芳香を放つ作品が増えることでもあります。ですがインディペンデントで作られた作品が多くの人の目に触れるようになり、新たなアニメ作家が生まれ、表現の多様性が広がる可能性があるということでもあります。アニメはこれまで多人数による集団制作体制を取らないと無理な表現形態でしたが、テクノロジーの進歩によって少人数でも、ひとりでも制作することが可能になりました。アニメは集団制作だったからこそ生まれた深みを持っていましたが、それにパーソナルな表現も加えられるようになってきています。これはアニメをだめにするかもしれませんが、新たな可能性でもあります。インディペンデント系作品、個人制作の作品には、今後も注目していきたいなと強く思いましたね。

「ネタにする」ことの功罪

 例のイベントに行ってから、「ネタにすること」の善し悪しについて考えています。唐沢俊一に代表されるおたく第一世代は、変なものをネタにして、笑い飛ばしてきました。その笑いのパワーが、そしてエンターテイメントとしての楽しさが、おたく文化の形成に貢献したのは間違いないでしょう。実際私も唐沢俊一の仕事は大好きで、それを手がかりにおたく文化研究の道に入ったのです。ですがずっと引っかかっていたのですね。ネタにすることには何かよろしくない点があるのではないかと。そこでちょっと考えてみましたよ。

*ネタにすることの利点
(1)楽しみとして面白い
 これについてはあまり説明の必要はないでしょう。

(2)抑圧からの解放
 ネタにされる対象は多かれ少なかれ抑圧を受けているものです。社会的に無視されるか、「なかったこと」にされてきたものです。それを「笑う」ことによって、可視化された存在に、有徴化された存在にすることができます。そしてそこにある権力の編み目を可視化して、その編み目からどう脱出することができるかを考えることが可能になります。「笑う」ことは「解放」につながるのですね。

(3)オルタナティブな視点の提示
 それまで見えなかったものを見えるようにすることは、それまでの「常識」を揺るがします。そして見えなかったものを参考にすることで、これまでとは違った対応や行動を可能にします。

(4)人間の無意識の深さを目の当たりにする
 そしてネタにされるものの多くは、人間の無意識に深く突っ込んだものです。その姿を見ることによって、私たちは人間の無意識の度し難さ、わからなさにこころ動かされます。それは狂気を呼び起こしもしますが、人間の精神世界の豊穣さを知ることでもあります。


*ネタにすることの問題点
(1)ネタにする側とされる側との間に権力性と不均衡が発生する
 ネタにする側はそのことによって利益を得るので、資源の不均衡が発生します。その結果ネタにされる側がネタにする側に、精神的・経済的に依存する可能性があります。そうなるとされる側がする側に従属し、する側はされる側に権力を行使することができるようになります。また名声の上がり方にも不均衡があって、する側の名声の上がり方の方が高いです。因果なサブカル系でよく見られた構造ですね。

(2)される側がさらし者になる可能性
 ネタにするやり方によっては、される側が世間のさらし者になる可能性があります。テレビに代表されるマスメディアは基本的に搾取的で、もっともインパクトのある形でネタにされる側を紹介しようとします。それは非常に極端なものであるために、される側の社会的生命を脅かす可能性があります。そしてそれはマスメディアでなくてもやってしまう可能性があります。

(3)ネタにすること自体に潜む暴力性
 ネタにされる側は、ネタにされることを望むとは限りません。そうした状況の中で無理矢理ネタにしようとすることは、非常に暴力的なことといえるでしょう。また(1)で見たように、する側とされる側には権力関係が発生しやすいですから、される側は意見を言いにくかったり、意見を封殺される可能性もあります。

(4)ネタにする側の無自覚
 そして一番問題なのが、ネタにする側が自分の行動に権力性・暴力性が潜んでいることに気づいていないことが多いということでしょう。確かにネタにする側とされる側の間に、「切断」があってこそ、対象を分析することが可能になります。相手のことを慮ることを断念してこそ、ネタにすることができるわけです。
 ですがだからといって、ネタにされる側の尊厳や誇りを踏みにじってよいわけではありませんし、される側を従属させていい訳ではありませんし、外の立場から対象を笑いものにしてよいわけではありません。
 される側の無意識の深淵に踏み込む危険を冒さずして、上から対象を語ろうとすることは、動物園の動物を見るのと同じようなもので、対象を檻に入れて檻の外から語ろうとするようなものです。楽しむ視線もありますが、暴力性とさげすみに似た視線がつきまといます。「愛を持って語るから」という言葉は免罪符にはなりません。愛を持って語ったとしても、ネタにされる側と同じ地平に立ち、その人への共感がなければ、対象を見せ物にして搾取することと変わりないのです。

 ネタにすることの利点は非常に多くあると思います。だからこそそれを生かすためにも、ネタにすることの権力性、ネタにすることの暴力性を常に自覚していかないといけないな、と思うのですね。無意識の深淵に沈み込んでしまうと分析はできなくなってしまいますから、分析対象と全く同じ立場からの発話はできないのは当然です。ですがそれでも、相手と同じ地平に立とうとし、相手の無意識に踏み込んでいくことは可能なはずです。

 上から語るのではなく、横から語る…これが必要な態度なのでしょう。自分も気をつけていかなきゃな、と思いますね。

やな感じのイベント

 おたくなイベントに行ってきました。濃ーいおたくの人がいて、美少女とかアイドルとか触手とか大好きなので、その濃さを笑うというイベントでした。この人のおたくっぷりは実に好ましいものがありましたね。「くりぃむレモン」のチラシをフルコンプしているっていうんですから。

 ところが非常に気になったのが、ツッコミ役の芸人やサブカルライターの人たち。濃い人は触手への愛を淡々と語るんですが、それに対して「それ異常だから」「おかしいから」とツッコむんですね。確かに濃い人は過剰なほど触手が好きなので面白いのですが、触手はおたく文化において基礎教養といってもいいもの。それにこのイベントは触手バッチコイの人々が集まっている場。そこでこの人の異常性を笑うっていうのは…じゃあ君らの正常って何?と皮肉の一つも言いたくなってしまったのでした。しかもオタク芸人やサブカルライターを名乗っている人ですから。これまでメディアがやってきた珍獣扱いとちっとも変わらないのですね。それを「自分はオタクである」と自称する人がやってるのですから、ああ、やりきれんな、と思ったのでした。

 これは対象を「笑い飛ばす」という姿勢に強く結びついていますね。笑い飛ばすことは、対象をしがらみや抑圧から解放する機能を持っています。「解放」ですね。ですがもう一方で笑う側の特権化と笑われる側の従属を生みます。思えばおたく第一世代の人々は、いろんなものを笑い飛ばしてきたのでした。それがおたく文化を創り上げてきたことは間違いないでしょう。ですが自分たちの「正しさ」についてはあまりにも無自覚だったように思います。彼らが作り出したものはとても多かったのでしょうが、覆い隠したものも多かったのではないかな、なんて思ったのでした。

Shakespeare’s Sister

*今日は筑波大学東京キャンパスで開かれた、シェイクスピアに関する講演会に行きましたよ。「MANGA・シェイクスピアに見る文化の移動と変容」というタイトルです。比較文学英米文学の人たちが科研費を取って、というプロジェクトのようですね。

*前半はイギリスのSelf Made Hero社から出ている「MANGA SHAKESPERE」シリーズについて、出版社の方と作家二人の講演でした。ヨーロッパのコミックであるGraphic Novelではなく、アメコミの形式でもなく、manga形式で描いているんだそうで。「Hamlet」は未来のサイバーパンクな世界が舞台で、「Romeo and Juliet」は現代日本が舞台になっています。舞台設定は違えど、教育目的にも使うため、台詞は極力原作通りにしているそうで。
 作者はいずれも20代前半と思しき若い女性で、「Hamlet」の作者のイタリア生まれのVieceliは赤ロリ、「Romeo and Juliet」の作者の中国系に見えるLeongは黒ロリという感じの出で立ちでしたね。
 内容は日本の漫画に比べればまだあらが目立ちますし、ロミオはビジュアル系Jロックのボーカリスト、ジュリエットは変な着物を着ているなど、日本人から見ればちょっと笑ってしまうような設定があります。ですがコマ運びや漫符の使い方、キャラのディフォルメの仕方など、結構ちゃんとマンガになってます。聞いてみたところ、イギリスで初の同人誌サークル「Sweatdrop」を作り、同人誌を作ったりコスプレをしていく中で、manga形式でシェイクスピアを描くというプロジェクトに参加したんだそうで。「萌え」はもう当然のように使っていますし、ボーイズラブなんかも大好きだそうで。私はボーイズラブが大好きなんだというと、"Oh! I love boy's love very well, too"と楽しそうです。日本的な視覚文化がもたらす萌えの姿は万国共通なのかもしれないな、と非常に興味深く思ったのでした。

*後半は日本人の方の発表です。漫画評論家藤本由香里さん、少女漫画研究の大城房美さん、これまた少女漫画研究のヤマダトモコさん。この中では特に藤本由香里さんの発表がグッときましたね。少女漫画に繰り返し描かれるテーマである、トランスジェンダー、同性愛、双子の関係、主体的な女性のありさまは、シェイクスピアをはじめとする劇中劇によってはっきり描かれるというものです。「アリエスの乙女たち」「アプローズ」「櫻の園」「青い花」…そういや劇中劇は少女まんがにつきものですし、それは強いメタファーとして機能します。なるほど日本の視覚文化におけるシェイクスピアの受容は、こういう形もあったのかと、ハタとヒザを打ったのでした。

男の子の「好き」パワー

taimatsu_torch2007-06-09

 奥さん! 今の「知っとこ!」見ましたこと!
 「子どもの味方」コーナーはいつも私が大好きな幼児・幼女がふんだんに出てきて素晴らしいコーナーなんですが、今日のはちょっとすごかったんです。

 今日の主人公は奈良在住の航大きゅん(8歳)。目がぱっちり二重のなかなかの美少年です。お父さんの転勤で福岡に引っ越してしまった親友のヒデに、プレゼントを渡そうというのです。まず航大きゅんのヒデ好きっぷりがすごいんです。いつも飾っているのは二人が一緒に寝ているところのツーショット。そこでヒデへのプレゼントは手作りの写真立てにするのです。ヒデは肉が大好きなので、写真立てに「にく」とか「ステーキ」とか書いてあるのがカワイイのですが、抜かりなく「ヒデ&航大」って書いてあります。そしてたくさん遊べるようにたくさんてるてる坊主を作るんです。な、なんといじましい!
 福岡に着いてヒデの家をアポなしで訪れます。その時のヒデの吃驚した顔。そしてヒデのエレクトーンの前には、二人で撮った写真がいっぱい飾られていました。それって…。写真立てに喜ぶヒデ。そして二人で外に遊びに出かけます。二人の手はしっかり握られていたのでした。
 夕方になり、そろそろ帰らなければならない時間です。そこで航大はヒデにずっと聞きたかったことを聞きます。福岡で親友はできたのかと。ヒデは「おらんねん」と答えます。「よかった」という航大。その顔は本当に嬉しそうです。「ずっと一緒だぞ」と、肩を寄せて笑いあう二人だったのでした。

 ちょwwwwそれなんてショタBLwwww
 思わずテレビに向けて「ふがー! ふがー!!」と鼻息を吹きかけてしまったのでした。血圧が上がる!

 しかしそれにしても恐るべきは8歳の男の子の「好き」パワーですね。「好き」パワーで福岡まで行っちゃうんです。その強さを見ていると、親友への「好き」って思いと、恋愛の「好き」って、実はほとんど一緒なんじゃねーの? としみじみ感じましたね。

ゲドを読む。

taimatsu_torch2007-06-07

 「ゲドを読む。」をもらってきました。これはなかなかすごい内容ですね。中沢新一による小説版の解説、小説版ゲド戦記についての論考集、そして宮崎吾郎河合隼雄の対談ですから。夏コミの原稿に向けて、ゲド戦記を再読しようと思っていたのですが、これは好都合。ネタ本にちょうどいいのです。

 アニメのことについては対談などで触れられていますが、「アニメにしたときにどう小説を読んだか」という内容になっているので、やはりメインは小説版といえるでしょう。形の上では「小説も読んでね」というメッセージのように思えますが、実際は「小説版は深みがある」「対してアニメ版は…」という冊子になっているように思います。この冊子自体がアニメ版の大いなる批評になっているのですね。可哀想だなぁ、吾郎…。

 ただ、宮崎吾郎にとっては明らかに敵が強すぎたんですね。しかも敵は3勢力います。ル=グウィン、観客、そして父親ですから。そうした強敵相手に相当苦戦しながらも、作品をそれなりの形にした吾郎は、やはりある程度の力量を持っていたのだと思います。次回作が本当の試練なんだと思いますね。そこで宮崎吾郎ならではの表現をして欲しいものです。

「韓国現代マンガ展」を見に行く

 今日は研究会の一環として、川崎市民ミュージアムに「韓国現代マンガ展」を見に行きました。「らぶきょん」がヒットしているパク・ソヒ、「プルンギル」を書いたクォン・カヤが来るというではないですか。韓国の文化の「いま」を知りたいということもあって、いさんで出かけたのでした。

 展示されていたのは大きく、漫画、アニメ、キャラクター展開の三つですね。
 現場でメモを取ったことは次の通りです。

*漫画は日本の影響強い。絵柄の点でも演出の点でも日本漫画をすごーく勉強している。「外人球団」の頃からそう。とじが逆なので見せ方が少々違うが、日本人でも違和感なく読める。
*キャラクター商品は日本に近い水準で十分カワイイ。売り方も日本に近い。日本で売っている韓国のキャラクターもある。日本を参考にしているのか、「かわいさ」の構造がよく似ているが、色づかいは多少大陸的。
*アニメは、日韓合弁のものは最初から韓国製として売り出している(マシュマロ通信アニマル横町など)。韓国オリジナルのセルアニメはまだまだクオリティが低そう。
*韓国オリジナルの作品はCGが多く、CGのクオリティは高い。クレイアニメも目立つ。

 なんたって原画がバリバリ展示されているのがよかったですね。漫画作品の原画が持つパワーというのは、ものすごいものがありますから。それに韓国の漫画家が目の前で絵を描くというイベントもあり、これは相当迫力があったのでした。全体的に非常に興味深い展覧会でしたね。

 それにしても感じたのは日本文化の影響力の大きさですね。韓国において日本文化はすでにドミナントな文化になっているのかもしれません。日本は太平洋地域において、政治やエネルギー、軍事の面では主導権を握れてはいません。ですがこと文化の面については、とっくに強力な主導権を握っているのかもしれないな、なんて妄想してしまったのでした。